◆◇ サパの活動報告(2006年1月〜2006年9月)
◆◇ サパの活動報告(2005年4月〜2005年12月)
◆◇ サパの活動報告(2004年1月〜2005年3月)
◆◇ サパの活動報告(2003年度)
◆◇ ギニア共和国におけるサパの活動報告 (2000年4月〜12月)
◆◇ 野澤さんの出張報告 (2000年2月21日〜3月11日)
◆◇ サナワリア村での活動(2003年3月)
◆◇ モロタ村での活動(2003年3月)
◆◇ 野澤さんの出張報告 (2001年)
◆◇ 現地の情景(2003年7月)
◆◇ 活動地ギニアへ行く1(2000年11月30日〜)高橋ユミ
◆◇ 活動地ギニアへ行く2(2001年2月29日〜)高橋ユミ

◇ サパの活動報告(2003年度) ◇

ギニアでの活動について国連FAOとの提携が実現しました

                        事務局長 野澤眞次

●はじめに
 サパが設立されて以来、早くも今年の3月で6年が経過することになります。この間、活動地ギニア共和国に住む人達の貧困の原因となっています熱帯林の消失及び、食糧の生産基地である焼畑土壌の劣化による農作物の収穫減をリカバーする諸活動を支援してまいりました。おかげさまでギニアの活動地では、住民達の生活が徐々に改善されてきました。他方、サパの最大の悩みはフランス語を理解し、マネージメント能力のある日本人現地責任者の確保が中々できないことでした。過去のトラブル原因のすべてがそこに集約されています。その解決策として、2003年4月に優秀な人材を多く抱える日本企業と「運営委託契約」の締結を実現することができました。NGOと企業との活動提携はあまり例がありませんが、お互いの不足部門を補完し合うことで双方の活性化に結びつければと期待しています。「貧困解消」活動の今後の展望については「熱帯林の再生」と「焼畑土壌の活性化」及び「風土病の予防」の三本柱に変わりはありませんが、待望の「選伐作業」が 2003年7月よりスタートできましたこと、更に日本の伝統有機肥料生産技術普及のため 国際連合のFAOと活動提携が2004年1月に実現しましたこと等が加わります。

●ギニア共和国における活動報告(2003年1月〜2003年12月)

 前項でもでも触れましたように、サパの最大の悩みである現地活動の日本人責任者確保が懸案の事項でしたが、東京に本社を置き西アフリカをテリトリーとしたコンサルタント業を営むE&H社と運営委託契約を締結しました。4月より委託運営を開始し、9月に継続契約の更新を行い2004年3月まで大過なく契約履行されました。受託側スタッフの主たる担当業務内容は、下記の通りとなっています。
◆毎月サパで立案された活動計画に基づき、ギニア人 スタッフにその実施を指導する。しかし、技術分野に関する指導は含まずサパの分担とする。
◆スタッフの賃金を含む必要経費の支出を円滑に行うと共に、金銭出納簿に記帳の上サパに提出する。
◆毎月の活動実施報告書をサパに提出する。
◆ギニアの行政、国連FAOギニア事務所及び、在ギニア日本大使館等にたいする各種報告業務の実施。

■霊長類の保護を兼ねたモロタ村の熱帯林再生活動

◆待望の「選伐作業」が開始されました。
 モロタ村で始まった最初の植栽は、1999年雨季の走りの7月でした。村内のラミホレ、シンバラヤ、バハホリの各集落に、土壌劣化のため収穫が望めず放置された焼畑跡地合に早期結実が期待できる「カッシュナッツ」を中心とした植栽が行われました。この他の新規植栽樹種は、マンゴー、ネレ、アカシア類が村民の希望で採用されました。地域住民達の食糧不足の補完と換金が当面の目的でした。
 しかし、熱帯林を構成するための主たる樹木は、これらの植栽樹でなく元焼畑地の地中で生き長らえてきた旧熱帯林の伐根からの萌芽稚樹で、樹種も80種を越える多さとなってます。5年経過したこれらの地区では、新植、萌芽の各稚樹が既に樹高3〜5mまで伸長し、混み合ってきました。そのため、焼畑栽培の繰り返しで土壌の地力が弱まった林地での保育本数を各樹種の特性を調査の上、適性本数まで減少させる必要があります。

 しかし、植栽後5年の短期間では最終的に残す樹種の特定には至りません。樹勢の旺盛な樹種は、他の弱い樹種を駆逐するようになります。このまま放置すると強い樹種に占有され兼ねません。 又、弱い樹種の中には果実、枝葉が利用される有用樹種が多く含まれることもあり、数多くの要因を勘案した「選伐」を行う必要性が生まれます。 選伐作業は昨年7月より開始されました。云わば再生林実現のための一里塚にやっと到達したと言えます。今後の課題は未だ完了していない植生稚樹の特性調査です。これらが順次明らかになれば再生林の最終構成樹種選択に好影響を及ぼすことになります。選伐作業は、高度な技術の裏付けを必要とするため、最初にギニア人スタッフ達にこれらの技術の習得を義務付けました。 サパが派遣した熱帯林の権威「内村悦三博士」の指導を受け、息の長い「森造り」が始まったところです。今後は、選伐作業を5年毎に行い、約20年間で森を構成する樹種と本数の特定を決めることになります。

◆植栽稚樹への灌水作業が実施されました
 植栽後3年経過した2000年植栽地66haの内、生育の良好な40haを除外した残り26ha及び、2001年植栽地30haの合計56haが灌水の対象となり、乾季の1〜5月にモロタ村の村民達が総出で作業が行われました。
◆焼き畑造成の飛び火で植栽地に被害がでました
 毎年乾季が始まる12月から翌年の4月頃まで、農民達による焼き畑造りのための野焼きが行われます。2003年の2月、モロタ村のクナディア集落で野焼きの飛び火により、2001年植栽地30haの内15haが被害を受けました。この地区の住民により自主的に8月被害苗木に代わるカシュナッツの直撒き補植が行われました。森造りが住民達の資産だとの意識に目覚めた始めてのケースとして評価しています。

■サムレヤ地区における熱帯林の再生活動

 モロタ村同様2003年度は、新規植栽を行わないことにしました。既に76haの植栽地を抱えるサムレヤ地区では、住民の貴重な財産である植栽地内の新植樹と萌芽稚樹の保育と管理を、住民達自身の責任で実施できるようにするためです。2002年度のセエンタ村植栽計画面積25haが、当年発生したスタッフによる職場一時放棄(雇用期間1年更新の就業規則を不服として)で苗木の育成作業着手が遅れ達成されなかったことを受け、2003年度はサムレヤ、セエンタ両村による自主運営に委ねることにし、7haが村民達による保育対象となりました。2003年の1月から実施した防火帯の設置については、サパから支援金が一部支給されましたが、村民達の財産である植栽稚樹の保育にたいし、サパへの依存を極力減らすよう話し合いが行われ、双方了解しました。サムレヤ地区の植栽樹及び萌芽稚樹の生育は、モロタ村の同年度植栽樹に比べやや劣りますが、選伐作業は2004年後半からの実施としました。

■サナワリア村における生活自立活動
 サパのギニアにおける活動のスタート地であるサナワリア村の当初は、行政機関から見放された地区としか思えない公共の施設皆無の代表的な最貧村でした。それから5年間、子供達に初めて教育の機会を生む小学校2校が建設されると共に、食糧の生産基地である焼畑土壌の活性化による農産物の増産を指導する「有機肥料生産技術研修センター」が設置され、一躍有名村として周辺地域内で位置付けられました。

◆「有機肥料生産技術研修センター」の運営活動
 2002年4月より、運営を開始した研修センターにおける2002年度の研修終了者数は当初計画の60名を下回る42名でした。初年度による未経験な研修計画立案の遅れ、募集スタッフの不慣れ等によるものでした。研修センター運営2年目の2003年度に入り、募集応募者数は、定員10名に対し3倍強の32名となり、住民達の関心の高さに担当スタッフが驚き、研修生選定に苦慮するほどでした。

◆国際連合FAOとの活動協力が進みました
 サナワリア村での有機農法の成果にFAOギニア事務所が評価し、10月12日付けのサパへの書簡で日本の伝統有機肥料「ボカシ肥」の生産研修依頼状がサパに寄せられました。又、FAOが世界各地で推進している「テレフードマイクロプロジェクト」に、サパがギニアで参加することで具体的な話合いが進行しており、2004年より実施の運びとなりました。更に、FAOは西アフリカで開発された稲の新品種群「ネリカ米」の普及にも取り組んでいますが、サパとしては新品種の機能が十分発揮される「土作り」も並行して推進する必要性を提議しています。(ネリカ米の項参照)
◆住民対象の保健衛生啓発活動
◆風土病の予防活動
 サパは、資格を有する「保健衛生士」をスタッフに採用し、世界で最も風土病の多い場所への対応を図ってきました。サパが注力しています「ギニアウオーム病」の予防活動を始めて4年が経過しました。この病気は、住民達の飲用している川水に生息している原虫が体内で増殖し衰弱するもので、国連WHOで撲滅対象病となっています。サパは、原虫に汚染されていない地下水を住民に供給するため深井戸を毎年1基村内に設置しています。2003年度は村内のダラサラーム集落に設置しました。清潔な化石水(注)のため「ギニアウオーム病」以外に、住民に多い慢性下痢の予防にもつながり効果は図り知れません。 サパは、この他死亡率の高いマラリア及び,各種のフィラリアにたいする予防知識の啓発活動を展開しています。(注:太古より地殻に封じ込められ、降雨に影響されない地下水)
◆幼児の健康管理活動
 担当スタッフのマリ・スマ保健士より、村内の5才以下の幼児の健康診断を実施した結果、標準体重に欠ける幼児の原因について下記報告がありました。カロリー欠乏性栄養失調症幼児に限らず青年、壮年にも存在するカロリー摂取 不足で、主として母親の栄養知識の欠如に起因する。
 クワシオルコル症
 カロリー欠乏症とは異なり、乳児が早く離乳することにより体内組織のタンパク質が欠乏し発症する。顔面や手足に水腫が現れ食べ物を受付けしなくなる。こうなると治療が困難で死亡率が高い。その他、大人を対象とした健康診断も行い、健康維持のための提案を示しその実行をサポートしています。

◆「ネリカ米」についての所見◆
 最近、日本でも話題となっていますNERICA米は New Rice for Africaを略した名前で、西アフリカ稲開発協会WARDA(West Africa Rice Development Association)が中心となり,約10年を掛けてアフリカ稲とアジア稲を交雑して開発された陸稲の品種群を指します。群としましたのは単一の固定品種ではなく,当初は 5000以上の分類上の交雑種があり、これらを対象に収量性、耐病害虫性,生育期間の制御性等の試験を ギニア、コートジボアールの諸国を中心に繰り返し実施し現在100以下の品種まで集約されてきたからです。 西アフリカにおける試験栽培面積は、2003年で30,000ha前後と推定されますが、すべて化学肥料が無料で農民に支給施用されており、この地で通常行われている焼畑での無施肥稲栽培に比べての優位性を示すデーターが何故か公表されていません。とりわけ劣化が進んでいる西アフリカの焼畑土壌を対象に、無施肥栽培でもネリカ稲が在来稲より優位性が高いことを実証することが今後の普及に重要です。西アフリカの焼畑栽培農民の大部分は、経済的理由で肥料が入手できないからです。WARDAは,西アフリカの陸稲栽培土壌の実態を詳細に調査し、 土壌の現状に即した品種開発にシフトすると共に、栽培土壌の活性化対策にも取り組むべきです。 日本では昔から「農業とは土作りである」と言われています。この言葉は、劣化した土壌にいくら優秀な種子を蒔いても豊かな実りは期待できないことを示唆しています。つまり有機物の多い物理性、化学性に富んだ栽培土壌の「土作り」を種子の開発と並行して推進することが不可欠と考えます。以上、敢えて愚見を述べました。 

◇ ギニア共和国におけるサパの活動報告 (2000年4月〜12月) ◇

ギニア共和国におけるサパの活動報告(2000年4月〜12月)※サパ発行ニューズレター”バラフォン”より転載

Dr.スマ・アリガスバール/野澤眞次事務局長
はじめに

 ギニアにおける活動のご報告が、4月から12月と種々の理由で長期に渡ってしまいましたことにお詫びを申しあげます。この大きな理由の一つにギニアの通信事情があります。昨年の3月に現地事務所を首都コナクリに開設すると共に、電話、FAX機を設置し東京事務局本部との連絡ができる態勢を整えました。しかし、ギニア電話公社の説明とは異なり、10月頃までは国際回線が少なく十分な相互連絡は取れませんでした。従って日本からの担当スタッフの現地出張による活動の実態把握に努めると共に、これらの情報をホームページ上でみなさまにお伝え続けました。そのためこのご報告とホームページでの情報が多少重複していますこと何卒ご了承ください。

モロタ村における霊長類の保護を兼ねた熱帯雨林の再生活動

●1999年度、既植栽木の生育状況と保育について
 この活動は1999年にスタートし、土壌劣化で栽培継続が不可能となった元焼き畑地42Haに約9,000本が植栽されました。植栽樹種は、霊長類の食料となるカッシュナッツ、マンゴー、ネレ等です。焼き畑跡地には、雨林の切り株からの萌芽が多く生育していますため、これらの稚樹と上記新植苗木との混交林を、熱帯雨林再生の姿と位置付けています。

@活着率
 昨年の植栽木約9,000本の活着率の調査を2000年7月に実施しましたので表1の通りご報告します。
 上記の結果から植栽木の樹種別活着率は、カシュナッツ85.5%、マンゴ72.5%、ネレ41.5%となりネレの不振が目立ちます。原因は播種から発芽、生育のスピードが他の樹種に比べ遅く、植栽時の苗木丈が10〜15pと短いため回りの雑草との競合の影響を受けたためと思われます。しかし、ネレの枯死本数307本は、全活着本数の約4%と低く、同年の7〜9月間の雨季に他の枯死木と共に補植を行いました。今年のネレの新植には、苗圃での播種を1カ月早めに実施し、活着率の向上を目指しました。

A補植
 上記の1999年植栽木の内、活着しなかった枯損木にたいする補植(1,901本)を7〜8月に行いました。この作業は、成林を目指す再生には欠かすことのできない重要な作業の一つと言えます。補植による活着率100%はあり得ませんので新たな枯損が発生します。従って、新植後33年間は再補植を繰り返す必要があり、活着の精度を高めていきます。

B保育
 新しく植えた苗木は、最低3年間の保育が不可欠です。保育とは苗木の周辺の雑草を取り除く除草、焼き畑造成のための火入れの類焼を回避する防火帯の設置、乾季中の苗木への潅水の各作業等を指します。
 従って2000年度は、1999年及び2000年度の合計2年分の植栽木の保育の実施が必要です。現在は1999年度植栽木の除草と防火帯の設置を作業中です。
はじめに

 ギニアにおける活動のご報告が、4月から12月と種々の理由で長期に渡ってしまいましたことにお詫びを申しあげます。この大きな理由の1つにギニアの通信事情があります。昨年の3月に現地事務所を首都コナクリに開設すると共に、電話、FAX機を設置し東京事務局本部との連絡ができる態勢を整えました。しかし、ギニア電話公社の説明とは異なり、10月頃までは国際回線が少なく十分な相互連絡は取れませんでした。従って日本からの担当スタッフの現地出張による活動の実態把握に努めると共に、これらの情報をホームページ上でみなさまにお伝え続けました。そのためこのご報告とホームページでの情報が多少重複していますこと何卒ご了承ください。

モロタ村における霊長類の保護を兼ねた熱帯雨林の再生活動

●1999年度、既植栽木の生育状況と保育について
 この活動は1999年にスタートし、土壌劣化で栽培継続が不可能となった元焼き畑地42Haに約9,000本が植栽されました。植栽樹種は、霊長類の食料となるカッシュナッツ、マンゴー、ネレ等です。焼き畑跡地には、雨林の切り株からの萌芽が多く生育していますため、これらの稚樹と上記新植苗木との混交林を、熱帯雨林再生の姿と位置付けています。

@活着率
 昨年の植栽木約9,000本の活着率の調査を2000年7月に実施しましたので表1の通りご報告します。
 上記の結果から植栽木の樹種別活着率は、カシュナッツ85.5%、マンゴ72.5%、ネレ41.5%となりネレの不振が目立ちます。原因は播種から発芽、生育のスピードが他の樹種に比べ遅く、植栽時の苗木丈が10〜15pと短いため回りの雑草との競合の影響を受けたためと思われます。しかし、ネレの枯死本数307本は、全活着本数の約4%と低く、同年の7〜9月間の雨季に他の枯死木と共に補植を行いました。今年のネレの新植には、苗圃での播種を1カ月早めに実施し、活着率の向上を目指しました。

A補植
 上記の1999年植栽木の内、活着しなかった枯損木にたいする補植(1,901本)を7〜8月に行いました。この作業は、成林を目指す再生には欠かすことのできない重要な作業の一つと言えます。補植による活着率100%はあり得ませんので新たな枯損が発生します。従って、新植後3年間は再補植を繰り返す必要があり、活着の精度を高めていきます。

B保育
 新しく植えた苗木は、最低3年間の保育が不可欠です。保育とは苗木の周辺の雑草を取り除く除草、焼き畑造成のための火入れの類焼を回避する防火帯の設置、乾季中の苗木への潅水の各作業等を指します。
 従って2000年度は、1999年及び2000年度の合計2年分の植栽木の保育の実施が必要です。現在は1999年度植栽木の除草と防火帯の設置を作業中です。

●2000年度、新植栽分の各作業について
@育苗作業(育苗本数は19,600本)
 昨年は、モロタ村より10q離れた山麓に位置する都市キンディア市で苗木の育成を行いましたが、植栽地まで車による苗木の運搬に可成の費用を要しましたので、今回は3カ所の集落でそれぞれ苗圃を造成し苗木の生産に当たりました。今年入手した苗木生産のための3樹種の種子の品質が極めて良好のため、発芽率が昨年の70%を上回る約85%となり、結果として昨年植栽の補植分1,900本を除き、合計17,700本の新植用苗木を生産できました。苗圃はモロタ村内のラミホレ、シンバラヤ、バハホリの3集落内にそれぞれ設置されました。各苗圃別の補植用苗木を除いた苗木生産本数は表2の通りです。

A地拵え作業
 「地拵え」とは、植栽予定地の潅木、雑草等を除去し苗木の植え付けを容易にする作業を指します。モロタ村では、昨年同様3集落での植栽を継続することを集落とサパの間で合意されており、それぞれの集落で植栽予定地が選出され、雨季前の5〜6月に「地拵え」作業が実施されました。

B植栽作業(植栽面積は66.2Ha)
 上記3集落の住民達の積極的な労力提供で7〜8月それぞれの場所に植栽されました。植栽本数は育苗 木の歩留まりが、種子の品質良好のため向上し、新植用に約17,000本が確保されました。従って植栽面積は合計66,2Haと当初の計画を約10%上回りました。今年はまれに見る豪雨が続き作業時間の制約を受けましたが、9月末にすべての植栽を完了しました。各集落別の植栽樹種別本数と面積は表3の通りです。

C保育作業
 除草と防火帯設置の各作業は11月から始まりました。前述の通り今年は昨年の植栽面積42Haと、本年分66.2Haの合計約108Haが作業の対象面積となります。作業量は昨年の2.6倍となりますが、中でも年明け1月から始まる灌水作業は、気温40℃近い炎天下、毎週最低1回の作業が不可欠のため、住民達に苛酷な労働を強いる事になります。

D霊長類の行動観察小屋の建設と観察結果
 霊長類の生息動向を調査するための監視小屋を、ラミホレとシンバラヤの2集落に各1棟建設しました。モロタ村では、周辺の森林の減少に比例して10年前程から霊長類による農作物の被害が増え始め、最近は深刻化しています。特に10〜11月の米、落花生の収穫期には、サバンナモンキー、チンパンジー、パタスモンキー、ヒヒ等の地上歩行もできる霊長類による被害がみられます。
 又、10月中旬での観察では2種類(Cercocebus、Colobus polikomos)の霊長類が新たに発見されました。サパのスタッフ責任者 Dr.スマ(京大霊長類研究所で学位取得)の調査では、この2種類は樹上移動が主のため、森林が減少したモロタ村の環境での生息は限界に達しています。既に生息が確認されている4種類を加え計6種類となります。
 サパではモロタ村の住民達と共同で霊長類の生息状況、特に種類別による群れの数と移動コースを監視小屋より調査していますが、住民の銃による殺害、罠による捕獲等で霊長類の警戒心が強く、全貌を把握するには至っていません。

サムレヤ村における
熱帯雨林の再生活動

 サムレヤ村は、標高約700mのモロタ村の麓にあり、ギニアの首都コナクリから北東のマリ共和国につながる国道より約10q南東に位置する農業を主体の人口約1,400人の山村です。古老の話では、50年前まで熱帯雨林が村の回りを取り囲み比較的豊かな暮らしが営まれていた由でした。
 この村のリーダーの長老達が、昨年の暮れモロタ村でのサパの活動を見聞し、サパに雨林再生の活動の要請があったのがこの村での活動開始の切っ掛けでした。モロタ村と異なる点は、霊長類の固定した生息場所はなく、農作物の被害も僅かのため「霊長類の保護」を外し「熱帯雨林の再生活動」に特定しました。

◆育苗及び植栽
 4月に苗圃を開設し苗木の育成を始め、8月に植栽をサムレヤ村の人達の参加で実施しました。モロタ村の熱帯雨林の再生方法と同じく、新植苗木と伐根及び実生よりの萌芽苗木との混交林を目標としています。異なるのは、新植のカシュナッツ、マンゴー、ネレ等の果実は霊長類が生息していないため、彼等に供するのでなく、地元サムレヤ村の村民達の食料及び換金用とした点です。植栽面積は当初の計画25Haを上回る28Haとなりました。植栽した樹種別本数は下記の通りです。
◆カシュナッツ 5,410本
◆マンゴー 864本
◆ネレ 739本
合計 7,013本

サナワリア村における
生活自立活動

◆サパ小学校
 1999年度にセンター集落、及びガンバ集落の各々にサパの始めての小学校各1教室を設置しましたが、生徒数が徐々に増加し1教室では間に合わなくなりましたため、全面改築で各々2教室に増やす事にしました。面積は、2教室で161.6u(8.10×19.95m)と広く計画しました。日干しレンガの壁にトタン葺き屋根と大幅にグレードアップします。また、トイレおよび飲料用井戸も設置します。2001年の2月完成を目指し12月末に着工しました。今年の雨季には今の草葺き教室と異なり雨漏りがなくなります。11月現在の2集落の各教室に通っている生徒数は表4の通りです。
 表4の1年生2年生は、年齢別に分けたのではなく、1999年に入学した生徒を2年生とし、2000年に新規に入学した生徒を1年生としました。年齢はそれぞれ4〜12歳までの子供達で構成されています。今年度、新たに教材を購入しました。内訳は石板120枚、フランス語教科書80冊、算数教科書100冊、算数の練習用ノート80冊等です。因に価格は、教科書1冊3,750FG(225円)、石板1枚1,200FG(72円)でした。教師はセンター集落がスマ・オスマン、ガンバ集落がアルセニ・パスカルで、共にサパのスタッフとして活動しています。両スタッフの相互連絡用に自転車を2台購入し、学習の効率アップを図っています。

◆「堆肥とボカシ肥」の生産指導活動
 前号でもご報告しましたように、貧困の大きな原因の1つが焼き畑地の土壌の劣化です。「土作り」の慣習のないこの地域では栽培の繰り返しで農作物の収量が激減し食料の不足を来しています。サパは、土壌の活性化のため日本の伝統有機肥料「堆肥とボカシ肥」の生産指導のため、センターとガンバの各集落に同肥料の生産小屋を各1棟建設し、徐々に成果が上がっています。

◆保健衛生活動
 サパの唯一人の女性スタッフで保健衛生士のファトウマタ・カマラが、サナワリア村内の各集落を精力的に巡回し、病気予防に関する知識普及のための学習を実施しています。各集落毎にこのプロジェクトを推進するリーダーを選出し、サパの保健衛生士スタッフの指導項目の徹底を図っています。指導内容は、飲料水の選択、身体の清潔保持、バランスのとれた食事、食料の保管方法等で、特に育児についての知識修得に重点を置いています。11月末現在の彼女が指導している箇所は、下記の7集落です。
 @サナワリア・センター Aカンバ Bダルサルム  Cミシラ Dトミニ Eカンケリバ Fラマヤ  

◇ 野澤さんの出張報告 (2000年2月21日〜3月11日) ◇
・はじめに 

サパ「西アフリカの人達を支援する会」は、この4月で設立3年目を迎えることになります。設立前の6年間、高橋ユミ代表理事と共に、マリ共和国の住民達の生活自立活動に取り組み成果を上げましたのを機に後進にその運営を託し、新しくギニア共和国での貧困解消のための活動の受け皿としてサパを設立した次第です。今月の3月始めより約10日間現地の活動をつぶさに観てまいりましたので、その最新の情報を以下お届けいたします。

・生活自立活動(サナワリア村) 
ギニアの首都コナクリより西130kmに位置するこの村には、学校、診療所などの公共施設は皆無で読み書き出来る村民が少なく農業の衰退と共に貧困度が加速されています。貧困の大きな原因の1つに土壌劣化が挙げられます。焼き畑栽培を中心とした農業は人工の増加でその地の使用頻度が多くなり、地力の低下のため農作業の減収をもたらしています。

サパでは先ず村民達の生活自立への意識の改革を図るため、昨年の4月より識字学習の取り組みを始めました。農作業が終わった夕食後の8時頃から13歳以上を対象に、ランプの灯火の下でスス語の読み書き及び、算数を学んでいます。サナワリア・センターとマデイナの2集落を対象としました。

他方、取り残された子供達のため昨年12月、初めてのサパの小学校1教室がサナワリア・センター集落に開校しました。4〜10歳の子供84名が村の大工の手作りの机に向かい、公用語のフランス語のアルファベットからの学習をスタートさせました。教師はサパの優秀なスタッフのオスマン・スマ44歳です。又、この3月より2つ目の小学校1教室がガンバ集落に開校しました。生徒数32名、教師はセラ・パスカルです。この2教室とも簡単な草葺き小屋のため、来年度中に日干しレンガとトタン屋根を使用した耐久性のある教室の立て替えを計画しています。この村にはまだ8集落に学校がありませんので、順次開校を予定していますが、サパの資金調達次第です。

つぎ地力の低下した農地の活性化のため、堆肥作りを昨年から指導していますがまだ技術習得には至らず時間を要します。又、主食の米以外に付加価値の高い新品種の野菜栽培試験を行い、日本から持ち込んだ熱帯気象対応の野菜種子の内2品目が成功、1部は既に市場に出荷され換金野菜として有望視されています。現金収入の定着化が村民達の大きな願いとなっています。

・霊長類の保護を兼ねた熱帯雨林の再生活動(モロタ村) 
ギニアには西アフリカ唯一の熱帯雨林が存在し、大河ニジェール、セネガル、ガンビアの水源地帯を形成しています。過去30〜50年の間に豊かな雨林は木材の輸出と焼き畑のため伐採され、今は見る影もありません。特に降雨水の貯水機能が極端に低下し、雨期の降雨による農地の表土浸食、流亡が著しく農産物の収量減を招いています。
    
他方、熱帯雨林に多数生息している霊長類は、伐採により食料の果実、枝葉等が不足し農作物に手を出すようになり、住民達の駆除の対象とされ始めています。元来、森林と農業とは密接な関係下にあり、豊かな森林の腐食土壌を透過した雨水には、農作物の成長に不可欠な栄養素がふくまれており、化学肥料のない昔から森林は農業を支えてきました。モロタ村の人達も昔の森林の恩恵を覚えており、貧困の原因の1つに森林の消失を挙げています。

サパでは、村民達の要請もあり農業の活性化と霊長類による農作物の被害防止を兼ね、伐採跡地に植林を実施すべく昨年42Haに霊長類の食料となる樹種(カシュウナッツ、ネレ、マンゴー)約10,000本を村民の協力で植栽しました。今回の出張では乾期における上記植栽木への灌水作業を見ることができました。日中40℃近くまで上昇する気温下での村民総出の灌水作業に大変な感銘を受けました。谷間に流れる小川から大人は家庭にあるバケツ,たらい、子供はやかん、ペットボトル等に水をくみ頭にのせ,植栽地までやく1・を運ぶ姿に村民達の森林再生への強い思いを受け止めることができました。2000年度に村民達は100haの植栽を希望している由で、サパとしても何とかして資金を作りたいと念願しています。(因みに100haは東京ドームの約20個分です。)種子の採取、育苗、植栽、除草、防火帯設置、灌水、補植等一連の各作業を確実に実行しなければ森林の再生は不可能です。

これらの作業を円滑に推進するには、モロタ村の人達との信頼関係の構築が不可欠です。村民達に信頼されている現場責任者は、スタッフのムルク スレーマンで、彼をサブスタッフのバングラ モハメット、カマラ ソリバの2名が補佐しています。小さなNGO(非政府組織)サパが、他に例を見ない規模の森林再生活動が出来ますのは、上記スタッフ、サブスタッフに加え、ギニア活動の現場責任者スマ アリ ガスパール(京都大学霊長類研究所に留学しDrを取得)の運営能力に負うところ極めて大であります。彼等スタッフ達にサパの会員、寄付者、その他関係者のみなさまの熱いご支援を今後とも賜りたくお願いし、私の出張報告とさせて頂きます。尚、現地での活動状況の写真を多数撮影しましたので、ご希望の方は事務局でご覧いただけます。又、ギニアの伝統楽器他を展示していますので是非一度お越し下さい。

◇ サナワリア村での活動(2003年3月) ◇
サナワリア村センター集落に1999年12月、開村以来はじめての草葺き「サパ・サナワリア小学校」が開校した。 4〜10歳の子供を対象にフランス語と算数の学習からスタートした。教師はスタッフのオスマンで教師の資格を有する。

机は2人がけであるが、現在84名と定員の倍の生徒数のため1つの机に2〜4名坐っている。ノートではなく石版を使っている。

「椅子付き机」羽村に住む大工2人が作った。有り合わせの板で作ったためサイズはふ揃い。現在、机の入っているのはこの教室だけ。残り3教室には2000年度中に設置すべく計画している。この方は、スマさんです。

今年開校した「サパ・ガンバ小学校」(1教室)で草葺きである。 ガンバ集落はサナワリア・センター集落カラ役5km離れており人口200名のチイサナ集落です。現在生徒数は32名ですが周辺の別の集落からの通学生で徐々に増える見込みです。教師はスタッフのシラ アルゼニ パスカルが担当しています。これは教室の授業風景です。簡単な草葺きのため、雨季には雨漏りが心配されてオリ、2000年には建て替えを計画しています。

右からサナワリア・センター小学校担当教師(サパスタッフ)のスマ オスマン、同じくガンバ小学校担当教師のシラ アルセニ パスカル、サパのギニア活動責任者のスマ アリ ガスパールの3名。 

◇ モロタ村での活動 (2003年3月) ◇
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山を取りモロタ村はキンディア県内にあり、人口約10000人と大型村に属する。遠くに見えるのがモロタ村のほぼ中央に位置する「ケバ山」で手前が東端に当たり、丁度ラグビーのボールを横割りした形に似ている。この囲むように15の集落が点在している。サパはこの内の3集落で熱帯雨林の再生活動を実施している。

モロタ村には約100匹の霊長類が生息しており、住処はケバ山周辺に集中している。森林の伐採で霊長類の食料が 不足したため、農作物に手を出すようになり駆除の対象となっている

50〜60年前までのモロタ村の住民達は鬱蒼たる森林の恩恵で、農作物も多く食料に事欠くことはなかった。 その後の森林の伐採により農地の劣化が進み、食料の不足を招くとともに、霊長類による農作物の被害が貧困を加速する事態となった。サパは、森林の再生を図ることで食料の自給と霊長類による被害の解消を目指し植林を1999年実施した。写真は植栽後の苗木を焼き畑による類焼から守るため幅8mの防火帯の作業検証を実施中のスタッフ達。

乾期(12月〜5月)中は全く降雨がないため、植栽した雅樹に灌水をしないと枯死してしまい折角の 苦労が 水泡に帰する。そのため、村民達は総出で近くの小川から家庭にあるあらゆる容器に水を汲み、約1km離れた植栽地まで運び一本一本 の雅樹に灌水をしている。

◇ 野澤さんの出張報告 (2001年) ◇
 みなさまご無沙汰いたしておりますが、ご健勝にてお過ごしのことと存じます。サパの事務局長をしています野澤眞次です。サパは、設立後4年目に入り、みなさまのご支援で活動地ギニアでの各プロジェクトも順調に行われています。活動のテーマは「貧困の解消」です。そのための具体的な活動として、
(1)消失した熱帯林の再生 (2)食糧不足を補う農地の活性化 (3)風土病の予防を3本柱としています。

 私は、上記の活動を実施するための技術指導と活動の進捗状況を把握するため、時々ギニアを往訪しています。今年は1月、5月、8月と3回ギニアを訪れました。1月は、サパの高橋ユミ代表理事と共に現地を見て参りましたが、このときのレポートは、代表理事からホームページに記載されていますのでここでは割愛し、5月と8月の現地ギニアでの活動の最新情報をお届けします。

●5月往訪の主目的は、サパの本格的な小学校の校舎の落成式出席のためでした。
上記の3本柱の活動推進には不可欠の識字学習を行うため、サパの最初の活動地サナワリア村で1998年、サパが村初めての学習識字教室を開設しました。しかし、資金不足で草葺きの建物となり、その後、老朽化が進み雨期には漏りが多くなり、授業に支障を来すようになりました。そのため、校舎を新築することとなり、資金総額約200万円で4月に完成し、5月31日に落成式が盛大に行われました。建設資金の内、約60‰は郵政事業庁の「国際ボランテイア貯金」利子の寄付配分金で賄われました。因みに、平成12年度末の国際ボランテイア貯金の加入件数は、2608万で、寄付金発生額は、7億8083万円で1件当たりの寄付金額は、299円となります。件数を人数に置き換え、今回の小学校への配分額120万円にたいする国際ボランテイア貯金の加入者数を計算しますと、驚くなかれ約4万人の加入者のご支援を頂いたことになります。ここに改めて厚くお礼を申しあげます。落成式当日は、約250人の参加者で盛大に式典が行なわれました。ギニアで唯一の日本のNGOサパが建設した始めての小学校とあって、関心を呼びました。地元タネネ県の教育委員会長、周辺町村長を始め、在ギニア日本大使館の伊藤公使のみなさんより祝辞をいただきました。この後、新校舎前でテープカットを行い、生徒達の授業がスタートしました。教室は40人収容の2教室ですが、椅子、机が大きく最高120人まで収容ができます。モロタ、サムレヤの各村では、今年の熱帯林再生植林の準備中で植裁用の苗木の育成にサパのスタッフ達が担当していました。雨期の始まる7月より、モロタ村30Ha、サムレヤ村40Haの伐採跡地に植裁が村民達により実施されることになっています。

●8月は予定外のギニア行きとなりました。現地の活動情報は、首都のコナクリ市にあるサパの事務所から、電話、FAX、国際宅配便によりもたらされます。ところが7月の13日より20日間連絡がなく、東京からの連絡にも反応がありません。以前も通信回線の故障で通信できないことがありましたが、電話公社よりのFAXで連絡はとれていました。ギニアスタッフの責任者は、会員のみなさまであればご存じのスマ博士です。連絡業務の重要性は十分認識していますので、連絡できないのは何かトラブル(交通事故他)に遭遇したのではと判断し、急遽ギニアに行くことにしました。8月10日の出発前になって、スマ博士より連絡が入りました。原因不明の激しい 頭痛で入院したが、良くならず地方の民間療法所に行き留守をしたためで、現在もまだ痛みがあるとのこでした。ひとまずホットしましたが、書類の整理が滞っているため、サパのスタッフ(非常勤)の伏見さつきさんと共にギニアに参りました。11日の夕方コナクリ空港でスマ博士と会いましたが、憔悴した表情でことの深刻さが伝わってきました。丁度13日(月)にサパと在ギニア日本大使館と草の根無償による小学校建設(5月末に落成した小学校とは別)に対する署名式(日本大使とサパギニア代表のスマ博士の間)が行われることになっていましたので、タイミングよく私達も出席することにしました。当日は、私が持参した薬が多少効いたのか、スマ博士の表情は昨晩より見違える程よくなり式に参列できました。ギニアの国営テレビの取材も入り、日本のギニアにたいする援助のPRの一助を担ったことになりました。この無償援助は、サナワリア村のカンバ集落に建てる3教室の小学校で、2002年3月までの完成を目指しています。ところが、一難去って又一難でモロタ、サムレヤの両村で現在新規植裁を行っている現場を往訪したところ、責任者のムルクさんが、マラリアで休んでいる事を知り、早速自宅を訪れました。彼に会ってい見ると40℃以上の発熱で苦しんでいるではありませんか。驚いて直ぐ入院の手配をしましたが、後になっての情報では入院していなければ危なかったとのことでした。(西アフリカではマラリアが蔓延していますが罹患しても直ぐに処置をすれば、必ず治ります。死亡するのは手遅れが原因です)

 伏見さつきさんのお手伝いもあり、スマ博士、ムルクさん等の病気で滞っていた書類の整理ができました。伏見さんお疲れさまでした。いやはや、あわただしいギニア滞在ではありました。結局スマ博士の病名は不明のままとなりましたが、その後の連絡では、体調は元に戻ったとのことで一安心しました。が、世界で風土病の一番多い地域のこと、なにに罹患するか予想がつきません。どのようなケースにも対応できる体制を確立する必要を痛感した出来事でした。尚、申し遅れましたが、2001年度の計画に入っています「有機肥料生産技術研修センター」の建設は順調に行われ、研修生の宿舎は、9月末完成の予定となっていますことを申し添えます。

◇ 現地の情景 (2003年7月) ◇
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現地で行われている「ぼかし肥作り」、「堆肥作り」の情況、「サナワリア小学校の授業光景」、「植林用苗圃の管理」の情況を主にしました。

(A)「ボカシ肥」作り方

「ボカシ肥」の生産工程(1)
ギニアに自生しているアブラ椰子の果実(天然のため梅の実サイズ。栽培すればプラム位の大きさになる。この果実が葡萄のように房「バンチ」を形成する)を臼で砕き、果肉の中の油分を分離する。しかし種子は堅く臼では砕けず、あとで取り出し乾燥後、石を使って砕き、同じく油分を取り出す。

「ボカシ肥」の生産工程(2)
アブラ椰子の果実を臼で砕き、搾り、油と搾り汁を分離した状況。この後、油分は放置すると酸化し腐敗するので、収穫後5〜8時間以内に熱を加える必要がある。油分の中にはかなりの水分が含まれているので、大きな鍋で煮沸後、上に浮いた油を取り出し、作業は終了する。従って、これらの作業過程で「椰子油」「搾り滓」「廃液」の三種類に果実が分離される。「ボカシ肥」の原料は「搾り滓」であり、廃液は後で説明する「堆肥」の発酵促進用に使用される。

「ボカシ肥」の生産工程(3)
上述の「搾り滓」である。堅い繊維に取りだせなかった油分が付着している。この油分が発酵によって肥効をもたらすことになる。

「ボカシ肥」の生産工程(4)
ギニア人達の主食は米で、約70%近くの比率で食されている。従って精米時に糠が発生する。糠には数多くのバクテリアが存在しており、「ボカシ肥」の生産に必要な発酵過程の主役となるため、欠かせない原料である。写真はこの二者を混合すべく「搾り滓」に糠を投入している光景である。

「ボカシ肥」の生産工程(5)
「ボカシ肥」の原料である「搾り滓」と「糠」を混同しているところ。このあと発酵が始まり、一週間程度で「ボカシ肥」の完成である。

「堆肥」作りの第一工程の終了

◇ 活動地ギニアへ行く1 (2000年11月30日〜) 高橋ユミ ◇
11月30日(木)
西アフリカに関わって9年、初めて現地ギニアに行けるような情況になりました。嬉しい。協力してくれると言う家族や、周囲の人達に感謝一杯です。事務所で事務局長と具体的な日程の相談。同行するのは、野澤事務局長、渡辺和彦さん(農業従事者。有機農業を主体の千葉県の生産農家)と3人の予定。2001年1月末から2月初旬にかけて約10日間の予定。マリを支援している頃から現地を訪ねたいと思っていましたが、実現できなかったのでとても嬉しい。予防接種、ビザ取得、飛行機予約が必要。飛行機チケット代往復で約25万円、ホテル代は1日7000円とのこと。

12月6日(水)
午前中予防注射に行く。今日は、A型肝炎感染検査のための採血と破傷風の1回目を受けました。
場所:〔財)日本検疫衛生協会 横浜診療所
    〒231−0023 横浜市中区山下町2番地(産業貿易センタービル3F)
電話:045-671-7041  FAX:045-671-7048
必要な予防注射:破傷風(1)、(2)、 血液検査(肝炎A型)結果がーの時は、ワクチン、黄熱病破傷風予防接種証明書を貰う。破傷風の注射はかなり痛かった、、。12月11日に血液検査の結果が出るから電話をして、結果を訊くこと。旅行用品店があったので、蚊取り線香を買う。虫除けスプレーも。マラリヤに感染しないためには、蚊に刺されないこと、ただこれのみとのこと、、。暑さには弱いし、、心配、、、???。

12月12日(火)
A型肝炎検査は(+)、これで、一つ注射が減りました。良かった、、。日程(予定)が決定。
出発日:2001年1月28日
帰国日:2001年2月12日
自分で予定していたよりも大分、長くなり仕事の上でもご迷惑をかけないようこれから準備が大変でしょう。年が明けたら頑張ろう。

12月27日(水)
破傷風予防注射の2回目をしに検疫協会に行ってきました。今日は、2組ほど予防注射に来ていました。狂犬病、破傷風などという声が聞こえました。 何処に行く人達だったのでしょうか。

12月30日(土)
友人のエッセイが載ったメールマガジンのHPを見ていると齋藤 清さんのコナクリからのレポート「ギニア国境情勢近況」を発見しました。情報不足の折から、助かります。

2001年1月5日(水)
今日は黄熱病ワクチン注射に横浜診療所に出かけました。行ってみると今までになく混んでいいました。家族づれも3組程、小学生もいる。この人たちがみな黄熱病というわけでも無さそうですが、次回を予約をしている人もかなりいました。このワクチンだけは前日までに予約が必要ですから。

1月8日(月)
昨日今日は、連休です。残念ながら、私はワクチンのせいか「だるい、、熱っぽい、、、食べたくない、、」という体調の悪さでごろごろして過ごしています。

1月11日(木)
今年初めて事務所へ。ギニアへの旅行のチケットが取れていました。往路は1/28、パリ経由コナクリ着1/29、帰路は2/10コナクリ発、2/11パリ着、2/12成田着。カレンダー上の日付だけを見る限りでも、まあ、、ギニアは遠い、、、。 飛行機代が約19500円。ホテルなど現地では1日約100ドルを用意することにしました。これらの支出は勿論自弁です。ただ、会の活動の一環ですので、あたしが支出した金額は会に寄付しサパの活動のための収支として、記録に残ることでしょう。

1月18日(木)
昨晩、幼なじみが私の現地でのマラリア罹患の心配をした友人が是非行くようにと紹介してくれた、(財)日本熱帯病協会に行きました。マラリヤの予防薬について説明を聞いてきました。そうしましたら確実な予防薬は無い、しかし飲まないと罹患した場合に重傷になり、大変だからとのことで推薦頂いた薬を分けて貰いました。それからサパ事務所に行き、事務局長にこのことを言いましたら、この薬は、最悪の薬で、彼はこれを飲んで血圧が下がり頭も上げられなくなった現地で寝たきりになったそうなのです。若い女の子でサパの会員がやはり現地ヘ行った際にも、これを飲んで2日動けなくなった、、。これは、飲まない方が良い、というのです。彼が、3年前にマラリアでないのに誤診され、帰国してから、そのことが解ったときもこの薬を飲んでいたために、治療薬の決め方が難しくなったと、日本のマラリアの権威である群馬大学の教授が言ったとのことです。

1月19日(金)
頼んでいたマラリアの予防薬の最近の文献が手に入りました。それによりますと、(財)日本熱帯病協会で、手に入れた薬は、血圧が降下するから心臓、血圧の不安定な人には禁忌とありました。事務局長と女の子の症状で下がりすぎて、2,3日おきられなかったのと一致します。彼も彼女もは日常的には血圧も、心臓も悪いわけではありません。もう1つ困ることは、この薬を予防薬として飲んだ人がマラリアに罹患した場合には、最も良い治療薬であるキニーネの点滴は1週間できないということなのです。こちらの方がもっと重要です。それで私は、この薬は服用しないことにしました。熱帯病協会の方はいまだにこれを勧めている、、、この協会は、従来の日本の予防皆無の医療(最近はかなり重要視されるようになりましたが)、のなかで、マラリアの予防をしようとするとき、熱帯で、働く企業の派遣員のためにできた法人で、他の省庁の情報がはいらないのか、、。きっと、若い健康な人だけが熱帯に出かけるのでひどい副作用は確認できないのかもしれません。 この文献によるとこの薬は、各国で使用されているようです。日本では認可されていない薬を売っているのも、効果も大きいからでしょう。マラリヤの予防は進歩が無いのだといって良いのでしょう。

1月22日(月)
所用のため、銀座に行った帰りに駿河台の世界マップハウスによりフランス語の世界地図を買いました。1部1300円でした。現地の学校へのおみやげです。もっと小さい子には小学生用のサッカーボールを3つ買いました。1つ1600円です。コナクリにもあるかも知れませんが、私の心ばかりのおみやげです。喜んでくれるといいな。

1月25日(木)
いよいよ出発が近づいてきました。とにかく、絶対に蚊に刺されないようにすること。そのための殺虫剤を、沢山持ちました。帰国後すぐに日常の生活に復帰出来ること、、それが私にとって大切なことです。今日は、スマさんのお子さん達のために小さなプレゼントを買いました。

1月26日(金)
今日から、スーツケースのパッキングを始めました。荷物はないと思っていましたのに、詰めてみるとある、ある、、。くすり、殺虫剤、などなどで、大部分がふさがりました。

1月27日(土)
昨夜、パックしおえて鍵を閉めて、玄関においたスーツケースに入れ忘れた物があることを思い出しキーが無くなっていることに気がつきました。家族中の協力がありましたが、とうとう発見できず、スタッフの協力で、ロックはづしの名人に来て貰い壊して開けて貰い、新しいスーツケースに入れ替えて、夕方、成田へむけて先に出発しました。この大雪で交通網は混乱しています。まだ、トラックの中かも知れません。サパ関係者の聡子さんから「行ってらっしゃい電話」大切な友人達や、いとこの順子ちゃんから「行ってらっしゃいメール」等が来て、少し元気がでました。 出発がちかずくに連れ、だんだん行きたくなくなってきました、、、。どんな旅行か想像もつかずこれで病気になったら、、、丸損だから、しっかり気を付けて行ってらっしゃいと娘に気合いを入れられました。
    
ここからは、帰国後に、滞在中のメモを元に書いたものです。

1月28日(日)
新宿から成田エクスプレスで、空港第1ターミナル駅に到着。2時間前の待ち合わせ時間にはまだ、大分余裕がある。ぶらぶらして足りない物を買う。荷物が無くなることも全くないわけではないから、2〜3日は過ごせるように機内持ち込み荷物に入れておくようにという野澤さんのアドバイスもあり、その重いこと、娘に借りたリュックが大きくふくらみその重いこと、久しぶりの重量感である。なにせ、着る物ばかりではない。内用・外用薬、殺虫剤、カメラ、フィルム、懐中電灯、、、減らせるものがない。これも娘に借りた赤いバッグ、大嫌いで使うことの無かったウェストポーチまでこのエアーポートで購入し、パスポートと往復のチケットとトラベラーズチェック、現金を大切にしまい、他の現金をバックとリュックに分けました。パリの乗り換え時にスーツケースが見知らぬ国に行ってしまったら、ギニア人の日常着を買って見るのもわるくないかも、、等と縁起でもないことを考える。チェックイン・カウンターの前で3人が出会いました。なんと、野澤氏はベンチにもなるパイプのついた小さな黒いリュックと、ウェストポーチだけではないか、、。渡辺君は、私と同じにリュックを背負っている。成田/パリ AF273 21:55 にチェックイン。

荷物の検査で、先ず、私の殺虫スプレーをとりあげられかけた。「なに??」「何故??」・・爆発物に該当する・・野澤氏が今まで何度もこれを持って搭乗したが、マラリア予防のための必需品ということで持ち込み禁止にはなったことがなかった、主張したが規則で決まっていることだから絶対に駄目と私のリュックをあけさせ、取り上げた。それではもっと上司の責任者をお願いするというと2人ほど入れ替わりに同じようなやりとりがあった、「現地で買うことは出来ないのですか」「いえ、現地には夜到着するし危険度3の所でもあり買いに行けるわけがありません。その夜に使う分がこれなのです。NGOの活動には必需品でほかのNGOでもみな持っていきます、それが何故エールフランスだけそれもおそらく東京だけこうなのですか。」説明に見せられたパンフレットの絵はどう見ても我々のもつスプレーではなくボンベの絵だ。

漸く、責任者の一人が出国手続きの所でわたしてくれることになり、無事、持ち込むことが出来た。冷静に沈着に説得する野澤氏はさすがだ。彼は、「シャルルドゴールでは、まず、何も言われませんよ」という。  ほぼ満席。 20分遅れで出発した。

1月29日(月)
パリ到着午前4:30。コナクリ出発は午前11:00シャルル ドゴール空港での時間をどうして過ごそう。乗換口には行かず1度入国して、買い物をしたいと野澤氏。広い空港の中は、人が本当に少ない。ある時間は目の見える範囲には私達3人しかいないこともある。出発フロアに行き暫くベンチで時間をつぶす。TEMPOだからサロンはないしあってもこの時間では利用できないだろうし。

6時半頃になるとぼつぼつ人も出てきて、軽食堂も開店したので入って、コーヒー、クロワッサンを頂く。渡辺君と私は初対面なので、この暇な時間はお互いを知るのにありがたかった。25年前、亡母のすすめで入会していた日本有機農業研究会が現在も活動しており、彼がその活動家として情熱を持って農業をしていることがわかる。共通の知人もどうもいるみたいだ。野澤氏は10年前から彼のところから、米、野菜、卵などを購入しているそうだ。

9時をすぎて、店も開いてきたので、買い物に行く。私はもう何も持てないので買わない。きょろきょろ、大きなリュックサックを背負って歩くのは大変だ。野澤氏の買い物はなんとマラリアの治療薬だった。ギニアで1番罹患しやすい熱帯熱マラリヤのそれではなく1型、2型、3型の治療薬だそうで、やはり、ハマダら蚊に刺されないように注意を払うしかないようだ。出国口での荷物の検査時には殺虫剤スプレーは、何の問題もなく通過した。野澤氏のいう通りだった。成田でのあの厳しさはなんだったのだろう。

コナクリ行きのゲートに並んでいるときに、5人の手錠をはめられた若い黒人が4人の国際警察の徽章、腕章を付けた男性3人、女性1人のオフィサーに私達の眼前を暴れながら抑えられながら、なんと、私達が乗る飛行機に引っ張られて行くではないか。よく見ると、コーナーにはもう5,6人同じような手錠の人達がいる。日本なら、衆人に見られると言うことはほとんどなく、そのようなときでも、手錠の手や、顔には何かがかぶせてあるのが普通だ。きっと、彼等は強制送還されるのだろう。機内に乗り込む。見える範囲では80%が肌の黒い人達。黄色が我々を含めて、4人。白い人が15,6人か。

なんと、スチュワードばかりそれも屈強の。ファーストクラスの方にスチュワーデスが1〜2人チラッとみえる。あの送還される人達が乗っているのだ。シーンと静まり返った機内はやはり異常な感じだ。出発し、何事もなくとびつづける。サハラ砂漠を上から見る。砂ではなく岩、石、土であることが察しられる。

マリ共和国の首都バマコに到着。約60%位の乗客が降りただろうか。約1時間後、離陸。乗務員達の表情から、もう彼等は降りたのであろう。ファーストクラスとの間のカーテンもあけ放し。カートを押したり乗客の世話をしながら笑っている。窓から見るバマコ飛行場はサハラから吹き寄せる風,ハルマッタンにより薄茶色のベールを越しに眺めるようにぼーっと煙っている。月も街路灯も。閑散とした、割と小さな飛行場だ。3年前まで所属したカラの事務所があるところなのだからよく見ておきたかった。

予定より約3時間遅れで、コナクリ到着。バマコに比べると比較的大きな飛行場だ。空港ビルも大きい。人のざわめきが沢山聞こえる。建物から出ると大勢の人、みな私達の方に手を伸ばしている。物乞いをしているのだろうか。大使館のA氏スマさんが迎えて下さる。感謝。 無事、到着。ホテル マリアドール レジデンスに到着。 

◇ 活動地ギニアへ行く2 (2001年2月29日〜) 高橋ユミ ◇
1月30日(月)
コナクリでの最初の朝を迎えた。ホテル マリアドール レジデンスは、三ツ星ホテルで、コナクリ飛行場にほど近い場所にあり、危険度からいえば、1番区より危険な地域にある。通りからホテルへの道は、どういう訳か白いペンキに塗られた高い塀がある。ホテルの前庭から、入り口へ向かう入り口の左側にその塀の1部がはずされていて、ホテルの駐車場と従業員が、何人かが、円くしゃがんだり坐ったりして食事をしていることもある。ゲートの右側には、警備員のいる小さな建物がある。その前を通り、入っていくと真ん中に小さな植え込みがあって、ロータリーになっている。道幅も、この車道も車は1台しか走れない。前庭の入り口に向かって右側の平屋の建物はパンや、雑誌などを売っている小さな店、美容院がある。このホテルに滞在している間美容院以外はほとんどいつもしまっていた。到着したときはもう9時を回っていた。フロントには男性が一人。パソコンもレジスターも見あたらない。

A4ほどの厚紙に折り紙のような小さな色紙がはってありそれに部屋割りでも書いてあるのだろうか。白っぽい床、壁、クッションの具合の悪い応接セットが2組、プラステイック製の椅子テーブルが3組おかれている。壁には版画がかけてある。あまりに高いところなので良く見えない。部屋は201号室。野澤氏が205,渡辺氏が204。荷物を、ボーイに運んで貰う。チップのお金がないので、スマさんに払って貰う。野澤氏にフマキラーの噴射のし方を教えて貰う。私が持ってきた。フマキラーは彼の金ちょーるより出方が強いそうだ。上の方から、家具の下、ベッドの背板と壁との間、壊れて開けっぱなしの家具や開き戸から中ヘ、冷蔵庫、エアコンのうしろ等。

それから、シャワーを浴びた。シャワーは浴槽なし。トイレとシャワールームは別。ベッドは、ダブルサイズが一つ。13インチのテレビ。昨夜は夕食が10時過ぎ。このホテルは11時すぎても夕食は必ず出来るそうで有り難い。夕べは、エアコンの調節が旨くできなくて暑かった。冷蔵庫が時々とんでもない大きな音をたて、その時に冷蔵庫も、その傍にある洋服ダンスの閉まらないドアも揺れ、音をたてたので、眠れなかった。時差のためもあるのだろう。 汗をかいたのでシャワーを浴びる。夕べはちっともお湯がでなくて殆ど水状態のシャワーでしたが、今朝は思いっきりお湯の栓をぐるぐる10回転以上回すと適温のお湯がでた。良かった。

1月31日(水)
朝食は、昨夜夕食を取ったレストラン。ギニア湾、大西洋(境界線は不明確とのことである。)を見晴るかすプールサイドにある。大きなマンゴーの木があり、小さな実が生っている。朝食はセルフサービスだ。アイスミルク、ホットミルク、オレンジジュース、お湯、フランスパン、数種類のデニッシュ、パインとパパイヤを細かく木って混ぜたフルーツサラダ、時々チーズの薄切り、テイーバッグの紅茶、ポットに入ったコーヒー。ゆっくり3人で朝ご飯をたべた。

11時に日本大使館に挨拶に行った。この地の気温に慣れない所為もあって、大使館に入っての、その冷えた空気の心地よいこと、、ほっとした。白い塀に囲まれた白い建物である。ここは日本なのだ。小松大使におめにかかって、サパの活動を紹介する。ギニアで活動するただ一つのNGOなのだ。偶然にも今日は、月に1度の日本人会とのことで、ご招待される。30分ほどで退出し、近くのホテルで昼食をとる。

そして、事務所へ。 私に取ってはじめてのサパの現地事務所。15分ぐらいで、到着。そう、ここだ、、野澤氏撮影の写真で見ていた道路に面した青い入り口の扉だ。事務所とスマさんの居間は、靴を脱いで入るようにしているようだ。事務所はスマさんの住まいとシェアしているから、スマさんには便利だ。彼には12月末に長男が生まれた。早速、日本にこちらの連絡先を書き、無事到着を知らせるたよりをかき、FAXする。なかなか通じない。こんなことはよくあるそうだ。12月、1月の出納、これからの予定等をうちあわせる。スマさんの机の前の壁の上の方にサパのカレンダーが掛かっている。左側にはワープロ、ファクスなどの事務機がある。風通しが悪く、私達にはとても暑く感じる。しかし、エアコンの嫌いなスマさんは暑くないそうだ。

次は待望の両替に銀行に行った。銀行はBANQUE INTERNATIONALE POUR LE COMMERCE ET L'INDUSTRIE DE LA GUINEE(BICIGUI)である。メインストリートなのだろう。向いにはエールフランスのギニア支店がある。交通渋滞。銀行の前は、人、自転車、物売り(鞄や、新聞や、地図売り等)で一杯。物乞いもいる。殆どが足の不自由な人だ。銀行の中は涼しかった。銀行員達は誇り高く、衣服も男女ともスーツではなく民族衣装の上等。あまりの素敵さにうっとりと眺めた。頭髪も縮毛ではなく綺麗に結い上げている。PCは数台しかない。この日1US$は、1875GNFだ。野澤氏、渡辺氏、私が両替するに要した時間はほぼ2時間近かった。こちらの両替の書類を受け取る人が一人、鍵の掛かるガラス張りの部屋に紙幣を数え、我々に渡す人が一人いる。彼は、手で1枚ずつゆっくり数える。10枚ずつ輪ゴムでとめる。紙幣が古く、これでは紙幣を数える機械があったとしても無理であろうと思われる。待っている間に、日本人がきた。やはり両替をしに来ている。聞いてみると、ギニアには、世界的太鼓奏者がいて、日本は今、この太鼓がブームになっているそうで習いに来る日本人が多いそうだ。その人達だろう。ゴム草履をはいて、ギニアの人達と同じ服をしている。その中の一人の男性は野澤氏にNGOについて聞いている。「NGOをすると金が儲かるんですね。」と、とんでもないことを言っている。

マリアドールに帰り一休みし、日本人会出席のために大使公邸に行く。大使、大使夫人、領事、領事夫人、大使館に勤務する方々。仕事でコナクリに滞在する方々で、28人。美味しい和食。中華の焼きそばなどが用意されてあり、美味しく頂いた。一人ずつ自己紹介をし、和やかな暖かなおもてなしだった。長いこと、こちらに滞在している方々はみな早く仕事を終えて、帰国したいと思っているようだ。私は昨日来たばかりで、申し訳ないような気持ちだ。1時間半ほど楽しく過ごさせていただき、明日は早いので、少し早めに失礼した。

1月31日(木)
今日はいよいよ活動地サナワリア村だ。早く出発したいと思っていたがスマさんも車も来ない。結局、出発は10時。事務所からはまだ,日本へのFAXは発信できないそうだ。心配しているだろう。交通がかなり渋滞、走っている車は日本車も多い。ミニバスもも日本では8人のりぐらいのものに15人ぐらい乗っている。屋根の上には車幅よりも大きくはみ出るほどに荷物を積んでいる。バスの停留所に泊まっているものも見る。途中で軽油を入れる。暫く行って、今度は水のボトルを6本かう。また暫く行って、今度はフランスパンを5本買う。スマさんによると、前に良くチャーターした車の運転手のお薦めのパンだそうだ。それから、チーズを買う。コナクリから、ここまで国道の両側は商店、屋台、立ち売りが一杯。一寸、停止するとオレンジの売り子がとんでくる通りには大きな根本から3m程を白くぬった街路樹が多い。その木陰には人が集まっている。コナクリから、北東へ国道を走る。この国のミネラルウオーター、COHYAの産地コーヤの手前からタネネへと北へ進路をとりどドユブリカ県にはいる。

道の両側は、自然に溢れている。通りすぎる村や、町には道の両側に商店、売り子がいる。女の人はプリント柄の布を腰にまき上にはゆったりとしたシンプルなブラウスを着ている。頭は殆どの人が髪の毛は見えずこれもプリントの布を巻きターバンのような帽子ふうにかぶっていて、荷物などをその上にのせ背筋を伸ばして歩いている。国道で舗装されているといっても車道だけの所謂、簡易舗装で雨が降ったらその水はどうながれるのだろう。左右の歩道に当たるところは所謂、道路予定地で赤土の上で、人々の生活が行われている。

やがて、サナワリアへの脇道に入る。簡易舗装ももうなし。ものすごい悪路だ。ほこりのためと自動車を傷めないために窓を閉めて走る。クーラーなし。30度はゆうに越えていると思われる外気温。車内は暑い。クッションも壊れているらしく斜めなので、すぐ壊れていそうなドアの方に身体がずれていくから、立て直さなければならない。若い運転手はこの悪路をスピードを上げて走る。向かいからくる車も真ん中を走ってきて、かなりぎりぎりまで右に寄らない。道路に沿って生えている幼木は土埃で赤茶色にかわっている。

約1時間30分後サナワリア村センター集落に到着。草葺きの家、柱の上に草葺きの屋根を載せただけの家。屋根は草葺きで壁は日干しレンガの家。洗濯物がロープにかかっていたり、草の上に広げてあったりする。村人達は家の前や、木陰で坐ったり、働いたりしている。まず、学校に行く。センター集落の小学校だ。サパが初めての活動地として、えらんだこの土地で、村人達が作った草葺きの屋根、壁の学校だ。中には黒板2つ。机と椅子これらはサパがサポートした。先生のオスマン氏はサパのスタッフである。青いブラウス、青いスカートまたはズボンのユニフォームを着ているではないか。野澤氏は、どうして?と俯に落ちない様子。親たちが、子供達同士に差が出来ないようにコンプレックスを持たないように、そして、これを着ることによりほこりを持つようになり、学校に入る子供が増えるからと言うことでみなで相談して親達が用意したのだそうだ。フランス語の授業だ。小学生が半年前には60人だったが今は90人。mを習っている。mを頭文字にした単語を答えさせている。それをオスマン先生は黒板に書く。上手な字だ。いくつか出そろった後、次はその上の学年なのだろう。その単語を使った単文を答えさせている。みなそれは元気だ。大きな声で叫んでいる。

この村に時々宿泊して保健指導をしている保健衛生士の希望で日本から持ってきた血圧計と、体温計を渡し、練習をみてみた。嬉しそうだ。健康に対する村人達の関心を得るためにも使えそうだ。途中から、建築中の学校を見に行く。野澤氏は基礎の部分の深さを測らせている。自信満々の様子でその部分を掘って見せている。この学校の建て方はこの近辺で建てられている、学校の中で最も優秀な建築だと、スマさんは言っている。後1ヶ月で、完成の予定。子供達が健康に良い飲料水がのめるように深井戸も掘っている。また、学校と反対側には便所を作っている。この井戸から良い水がでるので村人も利用できるようになるだろう。

次に、野菜の植栽地に行った。堆肥とぼかし肥と言う日本の有機栽培法をこのギニアに応用するべく始めた。努力のかいもあり乾期のためもあるのだろう、虫もついていない綺麗なみずみずしいべんり菜、チンゲンサイと小松菜の掛け合わせの野澤氏の名で呼ばれている野沢菜など良く育っている。化学肥料は、支援がなくなったとき、購入することが出来なくなりその農業は継続できなくなり地力を弱めることは理解されている。この農業は自分たちの周りにあるアブラカス、稲わら、落ち葉、糞、木灰などが肥料になることを知った村人達の現金収入にも貢献しはじめたようだ。

さあ、次はカンバ集落だ。車で10分もかからないだろうか。先ず学校へ。センター集落と同じ赤いシャツに青いズボンだ。村はずれの広場に草葺きの学校が建っている。その中にそっとはいっていくと、全員が私達の方をむいて、腕を組み大きな声で声をそろえて歌って迎えてくれた。それから声をそろえて歓迎の言葉を言ってくれた。 皮をむいたオレンジがパスカル先生の机の上の器に盛ってあり、「のどが渇いたでしょうどうぞ。」と勧められた。 このオレンジが美味しいのだ。ごちそうさま。優秀な先生と村人の尊敬を得ているパスカル先生もサパの大切なスタッフだ。
この教室は、本当に粗末だ。雨季になったら用をなさないのは明白だ。机はなく椅子だけ。みんな元気に歌ったり、私達を見つめている。大きな生き生きした目で何となく恥ずかしい。子供用のサッカーボールと世界地図をおみやげにわたす。

この子達をよく見ると、みんな痩せている。お腹周りはふくらんでいるが、これは栄養の偏りによるものではないだろうか。サナワリア村で見る人達は子供も含めて、みな痩せている。野澤氏が前回きたときに聞いたところでは、夕ご飯の残りを翌日の11時頃食べて、その後は、夕ご飯までは食べないと言うことです。ではこの子達はお昼にはうちに食事をしに帰るそうだが、食事はどうしているのだろうか。この2回食には時間的に間に合わないのだ。今度よく聞いてみなければならない。

その後、堆肥小屋を見て、渡辺氏達がぼかし肥えを周囲の落ち葉などを集めて仕込む。それから、野菜栽培地へ行く。小川の流れている近くの土地だ。丸太を数本渡したがたがたする橋を渡る。私はこんなところが妙に弱くて、いい年をして怖がってしまう。野菜は生き生きとそれはそれは元気に育っている。小学生も、村の男性達もみなぞろぞろ来て嬉しそうだ。勿論私も嬉しい。

センター村へ戻る。保健衛生士のフォトマタさんとマリさんが日頃の活動について話したいとの希望で、子供達が帰宅してあいた学校で話を聴く。とても熱心に活動し、それを私達に解って貰いたいと思っていることが良く解る。話の内容はまた、別に書くつもりだ。もう1度学校の建築現場を見て、もう大分夕方近くなったのでまた来ることにしてコナクリへと走らせる。暗くなってくると検問の数が増えたようで交通渋滞も激しくマリアドールへ着いたのはもう10時近かった。シャワーをあびて、食事をプールサイドで頂く。どんなに遅くなっても、食べられるとのことで、有り難い食堂。

2月1日(木)
今朝は、キンデイア県へ向かう日だ。7時に朝食。キンデイア県はスマさんの出身地だ。8時30分に車が来る。運転手はイブラヒムさん。今日はあまり遅れなかった。クリーニングが出来るとのことで、Tシャツ等3枚頼む。水の出は悪いし、停電になりがちなので、自分では出来そうもないと判断した。あちらに、宿泊する予定なので、大荷物。ホテルに残すスーツケースは渡辺氏の部屋に置くことになった。

朝のラッシュで、道は混んでいる。昨日と同じように。燃料を入れ、水、パン、チーズ等を買いながら、走って行く。途中、ボーキサイトの工場の傍を通る。鉄道線路が引いてありそれでボーキサイトの原石を港まで輸送するようだ。コナクリ市外にでると枯れた低木、草。緑はヤシの木、ネレ等、、。遠い山々は大きな木は頂上までなく、山の端の所々にほんの1〜2本高い木のあることが解る。アーー山はてっぺんまで,禿げているのだ。

「象の頭」という名の面白い形をした山があった。村が近くなると、道沿いに店が並ぶ。そういうところでは、ストップのロープが張られ、そのロープには,赤いしまのビニール袋が何個かぶら下がっている。検問だ。サパではスマさんは外務省からの日本のNGOでそのための活動をしているという証明書をいつも持っている。今回はそれを見せる必要もなく、殆どの場合、車の中を、じろじろ、あるいはにこにこと見て「OK」だ。野澤さんは助手席にのって、その時は敬礼をしている。そうした方が何事もなく通過しやすいとのこと。ホントカナ??野澤さんは可愛く検問の度に右手を左頭横に付けて敬礼を続けて下さる。
途中、見晴らしの良い所に停車した。そこは以前に野澤氏が来たときに、かつて熱帯雨林であったところがどうなっているかをこれから行くモロタ村ト、毛羽山を含めた周りの丘陵地帯を含めて一望に出来るところで、スマさんは、「ここは野澤さんの一番好きなところ」と、言っていた。2人は遠くにいる猿を発見したようだったが私には確認できなかった。

キンデイア県に来た。モロタ村に入る。モロタ村はキンデイア県では大きな村だ。中央にケバ山を真ん中に15の集落がある。そのうち、サパの活動地はバハホリ集落、シンバラヤ集落、ラミフレ集落である。もう一つは昨年から活動を始めたサムレヤ村だ。シンバラヤ集落に到着。ムルクさんがいる。彼はこの地域のサパのスタッフのリーダーだ。村人が何人も車の周りに集まり歓迎の言葉を言ってくれた。早速、サムレヤ集落へ行く。車の前をムルクさんがバイクで行く。今、灌水作業をしているのだ。かねてより、見たいと思っていた灌水作業だ。車は道とも云えない人間が歩いて自然発生的に出来た道を右に左に車体を傾けながら5分も走るとそこはもう、植栽地だった。2-3メートルある枯れ草の間に緑色のまだ小さい丈の木がある。樹木と言って良いものは本当に所々にしかなく、それもごく若い木だが、涼しそうな木陰を作っている。後で聞いてみるとネレガ多いようだ。ああ、聞こえる、聞こえる。村人達の声が、、。大きく聞こえるのはスタッフの声で、水を運んできた人を灌水すべき幼木に誘導しているのだ。1杯20Lを頭に乗せて運んで来て、1杯を2本の苗木にやってゆくことにしている。苗木の根本はどういう訳か、ビニールポットがついたまま植えてある。ポットの縁が土から大分上に出ているのもある。これでは根は土中深く延びるのが大変だと思うが、木の場合はそれも、熱帯の場合は良いのかも知れない。自分の小さい庭で買ってきた花の苗をビニールポットから外して植えていると言う経験しかないので、黙ってみている。

元気に、育っている苗木はそうでない苗木に比べるとしっかり土の中に根本が植えられている方が多いように思うが、、。水を受け取って苗木に注ぐのはスタッフで、それは丁寧に水をかけている。水をかけ終わると、運んできた人は、それを記録して貰う。子供は大人の半分の量だ。20kgもある水を頭にのせ、背筋を伸ばしてゆっくりと歩く姿は、気品があって、美しくも見える。大人はほとんどが女だ。赤ちゃんを腰に(背中ではない)くくって、20kgのポリタンクを運ぶ姿は、そのたくましさと美しさに見とれてしまう。子供達は、水を運んでいないときはからのポリタンク等を振り回して、駆け回っている。 私のそばにも寄ってきたそうに見つめているので「いらっしゃい、一緒に歩きましょう」と、日本語で話しかけると、恥ずかしそうに微笑んだり、にっこり嬉しそうに笑ったりして傍に来る。目と目を合わせると、どの子も、どの女の人もほほえみを返してくれる。やさしくて、はずかしがりやで、それでいて社交的なのかもしれない。ほとんどが女と子供だ。子供は5歳ぐらいに見える子から、大きな中学生ぐらいの子までだ。中学生ぐらいに見えるというのは当てにはならない。男の人は割と大きな人が多いから、もっと小さい年齢かも知れない。

灌水作業がそろそろおしまいになって、皆は村へ向かう。女の人は枯れ枝を拾って、頭に載せている。子供達は前に後ろになりながら輪tしの方を見ながら、歩いたりかけたり、、、。 子供達もそれぞれ、労働に対する賃金を得ているのだ。シンバラヤ集落に戻る。続いて、畑を見に行く。村人の努力の成果を見る。山東菜、通称野沢菜等が育っている。早く、現金収入が得られるよう軌道に乗ると良いと思う。次に霊長類の観察小屋に行く。朝、夕の2度毎日、この地域に霊長類が現れる数、種類を村人が観察しているのだ。木を櫓憎んでその上に小屋がある。はしごを登って、見晴らしの良い所でバケットのお昼ご飯を頂く。この時間は霊長類は現れないそうだ。残念。

シンバラヤ集落に戻って、植栽地を見に行く。ここは灌水の日ではない。苗木を植えたところに目印のために挿してある先に白ペンキを塗ってある木が並んで見える。足下にはキャッサバが植えてある。この土ももう大分弱っている。良いキャッサバは育たないであろう。 火事になった時に延焼を防ぐための防火帯。今は回りの草木は枯れて茶色でからからに乾燥している。もし、たばこのポイ捨てをしたらあっと言う目にもえてしまうだろう。ピピピピーとさえずる小鳥の姿は見えない。小さな苗木が必死で生きようとしているのを見るのは痛々しい。大きく育って私の背丈ぐらいのカシューナッツもある。所々に生えているネレヤ、アブラヤシの木陰で休みながらゆっくりと見て回る。気温38度、湿度20%。

渡辺氏は今夜はこの村に宿泊するそうである。サパが借りているスタッフ用の部屋に寝場所を用意してもらった。殺虫剤や蚊取り線香や水を彼のために、かきあつめて無事を祈りながら、羨ましくてならない。野澤氏、スマさんと3人も夕方に近くなって来たので、ホテルに向かう。キンデイア市にあるHotel Pharede Geneeだ。このホテルはコナクリから、古都カンカンをへてマリ共和国へ至る国道沿いにある4星ホテルである。入り口の回りには何をするでもない男の人達が立ち話をしたり、ただ立っていたりしている。ホテルのなかは思いの外、涼しくてホッとする。照明は何もついていない。何となく薄暗い。部屋が3つ野澤氏が選んできて、「ユミさんはどの部屋にしますか」と訊いて下さる。ロビーを囲むようにならんでいる4つの部屋のうちの3つである。興味もあったので3つ全部を見せてもらう。立て付けの悪い、でも、まあ何とか鍵の閉まるドアを開けて中にはいると、籐の応接セットがある。天井には扇風機。壊れた?冷蔵庫。次のドアを開けるとベッドルーム。大きなダブルサイズ。そのつづきにトイレとシャワールームがある。わたしは、部屋の入り口がロビーのフロントから見える位置にあり窓が道路に面していないところがよいかしらと考え、そこにした。チェックインの後、また、夕方帰ってきて、部屋に入ったときの儀式と化している殺虫剤のスプレーと蚊取り線香に火をつけていると、ドアをノックして2人のボーイさんがバケツを運んできた。2つの大きめのバケツには生ぬるいお湯が入っている。そうなのだ、水道から水がでない。シャワー、トイレ用の水を運んできてくれたのである。もう大分暗くなってきたのにまだ、電気もつかない。疲れた。

体を拭いて、きがえて、ロビーに出てみる。とても暗くてホテルのスタッフの顔が見えない。衣服の部分が見えるが、その上の顔が暗闇にとけ込んでしまっている。朝まで、どうも電気がつきそうもないとのことである。ろうそくを用意している。ろうそくを貰って、部屋に行き懐中電灯を持って来る。夕ご飯もは、出来ないホテルで外の屋台で食べると聞いていたので、ちょっと楽しみである。朝食は出来るとのことで、明日の朝食の飲み物、卵料理などの希望を聞いてくれる。このホテルの客たちがロビーにいる。みな男性である。ゆったりとしたガウンのように見える立派な衣服を着て堂々とした立ち居振る舞いである。見慣れない変な女がいると思うのかときどきこちらを見ている。ロビーの書く机等の上にもろうそくの灯火がともされた。スマさんはこの町の出身でこのホテルの近くにはお兄さん一家やお母さんがいらっしゃるとのことだ。今夜のお夕食はお兄さんの奥さんが作って下さるとの連絡が入った。屋台も魅力的であるが、こちらも、魅力的だ。コナクリではホテルではよく冷えた水が飲めたが、やはり、こちらはなま暖かい。ロビーの一角にテーブルと椅子がセットされ、きれいな花柄のナプキンやテーブルクロスが用意された。

そんなに広くないロビーにろうそくがともされた。すべて、裸ろうそくなので数が有る割りにはあかるくない。部屋に飲み水を確保しておかないと冷蔵庫にはもちろんなにもない。水を飲みながら、夕食をまつうちにスマさんは大きなお盆に皿、コップ、ナイフ&フォークを、ほっそりした身長の高い男の子が頭にお料理の大皿をのせ運んでくる。スマさんの甥だそうだ。スマさんより15cmは背が高く見える。ちょっとフナに似た魚は川魚だそうで、ムニエルにしたものが2匹まわりにはたまねぎ、キュウリ、トマト等、生の野菜がとりあわせてある。主食は粟のようなご飯でした。美味しくて夢中でたべてしまいました。スマさんはお母さんと一緒に夕食をとられるとのことで、野澤さんと2人の夕食でした。とうとう電気はつかない。ろうそくを貰って部屋にもどる。2部屋のテーブルと浴室におく。テレビもないし、本も読めないし懐中電灯を3個枕の横においておく。11時になって、眠たいのだが中庭に向いた窓の外で誰かがずうっと話している。妙に耳について、その声がなくかるまで起きていた。

2月2日(金)
夜中に目が覚めて、真の闇という物を久しぶりに体験しました。小さな窓は、もちろん月明かりもなく、しっかり施錠を確認してあります。懐中電灯を一つつけっぱなしでまた、眠りにつきました。あまり良く眠れないで早く起きてしまいました。ロビーに出てみる。立派な体格の立派な服を着た和tしたちと同じロビー階に泊まっているだんせいのお客さんがいる。ボーイはテーブルを拭いている。室内はクーラーはもちろん電気もないのでうすぐらいため、庭にでて、デジカメの画像の整理をする。庭は白い砂利が強いてあり、雑草1本ない。野澤さんと一緒に附近を歩いてみる。車が片側1車線をビュンビュンとばす車のとぎれない国道を横断し向こう側にはホテルのような大きな建物はない。ネレに大木の並木だ。ザックを背負った登校途中の小学生、たくさんのバケットを積んだ押し車をおす若者、赤ちゃんを背負って、食器を、果物を入れた大きなたらいに入れて頭にのせたおかあさん、畳んだ布地をたくさんかさねて頭にのせた娘さん、みな背筋がしゃんと伸びて格好がいい。また、大きなパラソルの下で、女の人が小さな木で作ったトランク型の鞄を開いて小さな商品棚にして、その横の椅子に座っている。鞄の中は、たばこが5個ぐらい、マッチ、小さなチーズ、電池、キャンデーなど細々した物を、数個ずつ売っているのだ。ホテルに帰って、スマさんと坊やの持って来てくれた朝ご飯バケット、チーズ、ハーブ茶、このハーブ茶はにはミルクと砂糖を入れて、ちぎったバケットを浸して頂く。

今日は、サムレヤ村へ行く。スマさんとイブラヒムが来て出発。ドブラニ県とキンデイア県とが別れる分岐点を右に曲がるとイヨイヨ、舗装のないところへ。クーラーのない四輪駆動車、窓を開けずにはいられない.埃だらけの片側一車線を走る。やがてサムレヤへの道に入る。道の両側は2m余りの茶色の枯れ草がバシバシ窓から入って来る。遠い山はそれほど高くない800m位か。山の端に木が数本立っているのが見える。その木以外はすべて、茶色だ。揺れに揺れるでこぼこ道、頭、胴、腰が別々に動く。そんな悪路だ。サムレヤ村に入る。サムレヤ村はケバ山をはさんで、モロタ村の東側に有る。この村は、サパから、声をかけたのではなく自分たちから、植林をしたいと言って来た村なのだ。今日は灌水はないそうだが、植栽地へ行く予定だ。村へ入ルと、村の長老達もいた。すると、スマさんが言う。

長老達は、日本から来た、サパの役員に確認したいことがあるとのことだ。苗を植えて育てて、結実したらその実、や木はサパがとってしまうのではないか、ということだ。前回、野澤氏が来たときにしっかりと話し合ったはずなのに、このような心配をするのは、このようなことがかつて起きたことがあるからなのだそうだ。悲しい話しである。私達はそんなことはないことを説明した。それから、現場へ行った。まだ、それほど植えた苗は、大きくなっていないように思われた。モロタ村より一年遅れてはじまったのであるからである。サムレアの取水池の周りは野菜畑になっているがこれはサパの耕作地ではない。湿地が広く続いている。畑には大変良い条件と思われる。しかし、堆肥と思われる物は何も見あたらない。サパの堆肥の普及はまだまだである。

村にかえると、なんと、驚いたことに、われわれの意見を理解して協力して熱帯雨林の再生をしようと、村の長老達が私達サパに米を一袋と、羊を一頭プレゼントしてくれた。サパの考え方を理解してくれたのだ。みんなで記念写真を撮った。米は、この村にサパのスタッフが宿泊するために部屋を借りているそこで、スタッフが利用することにし、羊は気持ちだけ頂いて、お返しした。嬉しかった。彼等はいままで、だまされたことがあったのだろう。それから、畑を見に行く。子供か、孫かを連れた長老も一緒に、子供達や男性の村人達もにこにことついてくる。畑が作られる土地は低湿地、おそらく雨季には貯水池のようになるのだろう。畑で、写真を撮ったりしながら、たのしく観察した。シンバラヤ村へ帰る。この村の野菜園を見に行く。歩いて5分ほどの小川のそばにある。フェンスを回して、その土は黒々と新鮮なみどりだ。ファシネさんが当初から熱心にやってくれている。渡辺氏の作ったぼかし肥ためを見る。

コナクリにかえる。

2月5日
銀行。サナワリアへ

2月6日
休養日

2月7日
しんばらやへ
スマさんへインタビュー

2月8日
午前中:事務所、銀行、買い物
午後:休憩

2月9日
午前:事務所
大使と昼食 事務所、買い物

2月10日
事務所:スマさん宅で昼食