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琉球王国を支えた大政治家・蔡温

投稿日:2018年3月5日 更新日:

琉球

いつの時代でも、その時代を支える大物の政治家が存在します。450年にも及んだ琉球王国にも、まさに大政治家と呼ばれるのにふさわしい人物がいました。彼は、いったいどんな人物だったのでしょうか?

中国にルーツを持つ蔡温

琉球王国を支えた大物政治家の名は、蔡温。そのルーツは、実は中国にあります。蔡温が生まれたのは、久米村。これは、現在の那覇市久米にあたります。

この久米村は、もともと、中国から沖縄に移り住んできた人々によって作られた集落。そのため、蔡温は、中国人の子孫として琉球王国で生まれのです。

裕福な家庭で育った蔡温

蔡温は、1682年10月25日に、蔡氏志多伯家十世の蔡鐸とその正室・真呉瑞の次男として生まれています。父である蔡鐸は、久米村の最高実力者である総役を務めており、裕福な家庭で幼少期を過ごしたといわれています。

反抗的な怠け者だった少年時代

大政治家にまでなった蔡温ですから、さぞや優秀な子供であっただろうと思われがちですが、意外なことに、結構手のかかる子供だったようです。暇さあれば遊んでばかりだったという蔡温。もちろん、勉強なんてほとんどしません。それどころか、勉強そのものが大嫌いだったといいます。

そのため、同じ久米村に住む若者たちの間では、馬鹿にされることもしばしば。裕福な家庭に生まれ、苦労をすることなく暮らすだけの余裕があるのに、16歳になってもろくに読み書きができなかったといわれています。

そのことを理由に仲間はずれにされてしまった蔡温は、さすがに悔しさのあまり声を上げて泣いたそうです。

勉強に目覚めた蔡温

このような悔しい出来事を体験した蔡温は、その後、人が変わったように勉強に打ち込み始めます。片っ端から書物を読み漁り、読み書きを身につけた蔡温は、20歳を迎えるまでに、論語をはじめとする多くの書物を読み込み、瞬く間に知識を身につけます。

その甲斐があって、19歳には現在の通訳に当たる通事に任命された蔡温。その後も、学問に励み続けた蔡温は、21歳で漢文読書の教師、25歳では講解師という講談の教師となりました。

27歳で中国に渡った蔡温

非凡な才能を認められた蔡温は、進貢在留役として中国に渡り、現地での通訳として清の福州に赴任します。ここで、彼のその後を決めるある人物と出会います。それが、「湖広の者」と名乗る隠者です。湖広の者と名乗ったこの隠者と蔡温は、滞在していた福州琉球館のすぐ近くにあった凌雲寺の住職に紹介されたことによって出会います。隠者は、ある日、蔡温にこう諭します。

「書物を読み知識を習得しただけでは何の役にも立たない」

この言葉に強く感銘を受けた蔡温は、これまでの学問との向き合い方を大きく変えます。それが、実学の思想です。実学とは、実生活に役に立つことを目的に学ぶ学問のこと。当時の中国では、「経世致用の学」と呼ばれていました。

蔡温が目覚めた経世致用の学

経世致用の学とは、明代末から清代初頭にかけて形成された学術思想です。この思想では、学問とは現実の社会問題を改革するために用いられるべきだとしています。この考えに強く影響を受けた蔡温は、その後、隠者にその思想の真理を学び、いかにして学問を人のために使うかということを、徹底的に学びます。

さらに蔡温は、隠者から陽明学についても学びます。陽明学は、中国の明代に起こった儒教の一派で、「心即理(心こそ理)」「知行合一(知ることと行うことは同じ心の良知である)」「致良知(心の本来のあり方は理と合致する)」を主な思想としています。

こうした新たな考えに身につけ学問に打ち込んだ蔡温は、29歳で帰国の途につきます。

実学を身につけた蔡温を重宝した琉球国王

人の役に立つ学問を徹底的に学んできた蔡温は、帰国後、その思想に基づき、積極的に仕事に打ち込みます。

こうした働きが認められた蔡温は、30歳になると、当時の皇太子である尚敬の世子師職兼務近習役(皇太子付きの教師)に任命され、さらに翌年、尚敬が王に即位すると、国師に任命されます。この国師とは、琉球王国史上、蔡温のみが就任したという地位。そのため、前例がないばかりか、蔡温が退任したあとにその地位を任命された人もいません。

これだけの待遇を約束された蔡温は、国師として、琉球王国全体を指導する役割を担うことになります。

蔡温の地位を高める結果となった大事件

蔡温が38歳のとき、その後の彼の地位を確固たるものにしたある事件が起こります。このころには、すでに親方(琉球士族が王国から賜ることができる最高の称号)となっていた蔡温は、冊封との対応も行っていました。

この年の6月に那覇に到着した清の冊封使の従者が、大量の貨物を持ち込み、琉球王府に高く買い取るように強く要求します。

無理難題を押し付けられた琉球王府ですが、清との交流は、国益にもつながる重要な問題。そのため、王府の役人たちは対応にあたります。ところが500人にも及ぶ役人たちが対策を考えますが、一向に解決策が見出せなかったといいます。そこで、白羽の矢が立ったのが、蔡温です。

冊封の機嫌を損なわずに琉球王国の国益を守るよう国王から対応を任された蔡温は、冊封によって持ち込まれた品々を、ひとつずつ品定めをし、粘り強く交渉を続けました。その甲斐があって、交渉は無事に成立。この一件によって蔡温は、国王だけでなく、琉球王府の役員たちからも一目置かれる存在となりました。そして、その後、三司官座敷(三司官となることができる資格)を認められます。

蔡温が最も力を入れた農業改革

当時の琉球王国の主な収入源は、農業でした。国民の多くは農業を営んでおり、五穀豊穣こそが王国の繁栄につながるものでした。

ところが、当時の琉球王国は、決して農業技術が発達していたとはいえませんでした。特に当時、農民たちを悩ませていたのは、度重なる羽地大川の氾濫でした。台風や大雨が起こるたびに甚大な被害が出る羽地大川では、川が氾濫するたびに作物が流されてしまいます。さらにそれだけではなく、氾濫した川の水は、周辺に立つ集落そのものも飲み込んでいきます。

それだけに、羽地大川の整備は、政府として早急に解決しなければならない重要課題だったのです。この問題に着手したのが、すでにこの時には三司官となっていた蔡温です。

堤防や用水路の整備

蔡温が農業改革として最初に取り組んだのが、反乱を起こさせないために必要となる堤防や用水路の整備でした。蔡温は、まず羽地大川周辺の土地の状況や川の性質を十分に調べることから始めます。このときに役立てたのが、中国で学んだ風水です。

この風水技術を駆使して川の流れを徹底的に調べ上げた蔡温は、いかに川の流れに負担をかけずに改修するかを考えます。こうして綿密に計画された羽地大川の大改修は、総勢約10万人を動員して行われました。

しかも驚いたことに、これだけの大改修を、わずか3ヶ月で完成させてしまいます。この羽地大川の改修によって、安定して田に水を引くことができるようになったため、この地域は米どころとして再生します。このときの功績をたたえた記念碑が、羽地集落内には残されています。蔡温の羽地大川改修の功績をたたえる記念碑は、現在、名護市にある川上公民館敷地内で見ることができます。

川上公民館

  • 住所:沖縄県名護市字川上3
  • 電話:0980-58-2950

植樹の推進

四方を海に囲まれている琉球王国の発展ためには、家や船を作るための木材が必要になると考えた蔡温は、農民たちに植樹を推進していきます。

さらに、海岸部には潮垣としての役目を果たすアダンやテリハボク、マツを植えさせ、主要な道路には、琉球松を植えるように指示しました。このときに植樹された松並木は、今でも見ることができます。それが、本当北部の辺戸地区に残る「蔡温松並木」と名づけられた松並木です。

現在この地区で見られる琉球松は、18世紀ごろに植栽されたといわれていますが、平成10年に保全公園として指定されてからは、散策路などが整備された美しい松並木となっています。

辺戸蔡温松並木

  • 住所:沖縄県国頭村辺土名121番地

ユイマール精神を定着させた蔡温

沖縄では、今でもユイマールという相互扶助の精神が根付いています。この考え方を庶民に定着させたのも、蔡温です。もともとユイマールとは、「ゆい」と「まーる」の2つの意味があります。「ゆい」とは、「結い」の事を指し、共同または協働という意味があります。「まーる」には、「回る」が訛ったものといわれ、「順番」を意味しています。ですから、ユイマールとは、労働を順番に、かつ平等に行っていくということを意味しています。

農作業の効率化から考え出されたユイマール

農業国だった琉球王国で主に作られたいたのが、サトウキビです。このサトウキビの収穫は、非常に重労働です。そのため、収穫時期になると、複数人が1つのグループをつくり、一軒ずつ収穫をしていきます。こうしたグループのことを「ユイグミ(結い組)」といいます。

ユイグミの特徴は、リーダーが存在しないということ。そのため、労働に対しての報酬は存在せず、また、作業においてもすべて平等であることが求められます。こうしたユイグミの活動は、農作業以外でも見られます。家の建築はもちろんのこと、墓の建造や葬式の運営などにも関わります。こうしたユイマールの精神を基本としたユイグミの活動は、現在でも見ることができます。

葬式の運営でみるユイマールの精神

葬式は、冠婚葬祭の中でも特にユイマールの精神が顕著に見られます。農作業が主な産業だった沖縄では、葬式だとしても、農作業を休めば、それだけ収入にも影響が出ます。ですから、遺族が葬儀に専念できるよう、農作業を肩代わりする係がいました。

さらに、棺おけを作る係、食事を作る係、葬儀を知らせるために連絡役として集落を回る係、遺体を墓に移動するための龕(がん)を担ぐ係などさまざま。現在では、これらすべてを見ることはほとんどありませんが、それでも沖縄では、今でも相互扶助の精神で、地域の人々が葬儀に積極的に関わる地域が数多く見られます。

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